飛紅真の手紙

自然、アート、社会問題を静かに叫ぶ。

シュルレアリスム画家展で考えた、やりたいことを貫く生き方

1人のシュルレアリスム画家の人生をたどる美術展に行き、「やりたいことを貫く生き方」を目撃しました。

第一次・第二次世界大戦という、自分の意思が全く通用しない不条理な時代を生きたのに、自分のやりたいこと=芸術を見つけて、それを死ぬまで貫き通した、一人の日本の芸術家。

 

米倉壽仁(1905~1994)

【生い立ち】

山梨県甲府市で、旅館と駅弁屋を営む次男として生まれた彼は、経営学を学んで旅館を継いでほしいと親に期待され、名古屋高商(名古屋大学経済学部)に進学しますが、強く反発していました。

当時西欧から日本に入ってきていたシュルレアリスム文学(目に見える世界とは違う、心の中を表現する)にのめり込み、仲間と詩集を作り表紙絵や挿絵も手掛けていました。

大学卒業後一旦故郷に戻り高校教師となりますが、「詩を絵にしたい」との思いから独学で絵を学び、仲間と前衛絵画グループを結成し展覧会を行っていました。

26歳の頃、二科展で初入賞したことを機にシュルレアリスム画家として生きる決断をして教師を辞め、5年後に上京します。

第二次世界大戦が始まり前衛的な表現は厳しく統制されます。徴兵は免れたものの一時帰郷して家業を手伝ったり、仲間が投獄されたりと戦争の影響を受けながらも、仲間と創作活動を続けました。

終戦後、46歳の時に彼が中心となって「人間性」を重視した絵画団体「サロン・ド・ジュワン」を結成し、晩年になるまでシュルレアリスムを追求し創作活動を続けました。

 

米倉壽仁「ヨーロッパの危機」
1936年 油彩・麻布
山梨県立美術館蔵

米倉壽仁 「黒い太陽」
1954年 油彩・麻布
山梨県立美術館蔵

 

同時に、これだけの生き方を見せつけられると、私はこの自由な時代に生きて、「やりたいことを貫いているだろうか」、と自問自答せざるを得ないのです。

私たちの生きる現代の日本は、身分階級の差もなく、表現する自由が憲法で保障され、スマホやパソコンがあれば個人が世界中に何でも発信できて、本当に自由な時代です。

けれど、自由な時代に本当に自由に生き方を選択できているだろうか?と疑問に思うのです。

親や世間の目を気にして、損か得かを判断して、自分で自分を縛っていないだろうか、と。まさに私がそうでした。

 

【私を振り返る】

私は物心つく頃には絵画が大好きで、色鉛筆画や水彩画、中でも漫画を描くことに熱中し、描いては友達に見せて・・・と、小・中学校は絵と共にある生活を送っていました。

スポーツは大の苦手、言葉による自己主張も苦手で、絵画で自分を表現することが頼り。

県内の教育美術展では毎回入選していたので、自分の絵が美術館に展示されるたびに家族で足を運んでいました。

親や友人、教師から承認される唯一の方法が絵画でもありました。

 

けれど、バブル崩壊の長い不況を生きた両親は、「美大には行かせられない」「絵の塾には行かせられない」が口癖でした。

絵の道には行くなよ、と早くから牽制していたのかもしれません。

通わせてもらえたのは、学習塾。他のことなら何でも自由にさせてもらった記憶しかないのですが、将来については譲らなかった親。

親に反抗することはなかったけれど、卒業文集に書いた私の将来の夢は「漫画家」。

 

中学に入る頃には漫画の描き方の本を読み、ペンやスクリーントーンも手に入れ、本格的に漫画を描き始めました。

全国の人と同人誌活動を始めた辺りで、サークル活動だとかグッズを売るだとか、目標を見失い変な方向に迷い込んでいました(笑)。

受験が見えてくると親から絵を一切禁止されますが、ここでも反抗することなく、目標を親に認めてもらえる「教師」に切り替えました。

 

親を責める、恨むつもりなど全くありません。

私は米倉壽仁のように親には反発心は持っても反抗などする勇気もなく、意志の強さもありませんでした。

悔やむとすれば当時の自分自身の幼稚さ、独立心のなさかもしれません。

そんなブレブレな私が人並みに生きていける方法といったら、親や周囲に認めてもらえる職業に就くことだと、中学生にして悟っていたのかもしれません。

高校では美術部に入り部長をしながら油絵で2度大きな賞を受賞したこともありました。

生徒会活動と創作活動に熱中した結果大学受験に失敗し、滑り止めの看護大学に進学して、あの頃には想像すらしていなかった「看護師」になりました。

実は、何を隠そう一番なりなくない職業が看護師でした。

当時は「ナースのお仕事」全盛期でしたが、スカートで仕事をするだとか、医師の指示に従うとか、医者と結婚を夢見るだとか、そういう世界が本っ当~に嫌いだったし、「表現」の対極にある仕事だと幼いながらに感じていました。当時の高校3年生の私の理解です。

浪人する勇気も気力もなく、あっけなく教師の道は諦め、目の前が真っ暗な私に光を差してくれたのが、看護大学パンフレットの「精神医学」「臨床心理学」の文字。

「この授業受けてみたい!」という気持ちだけで入学し、「精神看護」の道一本で行こうと心に決めて現在に至ります。

後悔どころか、奥深さや意義深さに魅せられ現在の私があります。

看護師6年目には自分の意思で大学院に進学し、精神看護を極める歩みを始めました。大学受験に失敗して魂が抜けた私を、必死にまともな職に就けよう、自分で生きていけるよう看護の道に向かわせてくれたのは親でした。

主体的な選択とは言えませんでしたが、よくも悪くも、あの時の選択が人生の分かれ目でした。

 

そして、いまでも私は「もう一つの生き方」を模索しています。

もう親や周囲から承認を得る、期待に応える必要などもはやありません。

必要なのは、自分が自分に納得できることだけ。新居にどうしても、とアトリエを作ったのも、どこかで絵の道を自分の中に残しておきたかったのかもしれない、と思うのです。

人生って不思議なものですね。

 

大人になるにつれ、どんどん後戻りできなくなります。

どんどん捨てられなくなるものが増えていきます。

だけど人生100年時代。20代の頃に就いた職業で一生やっていく必要もありません。

40・50代が生き方の選択のもう一つタイミングかなと思っています。

 

このタイミングを決して逃さずに、今度こそ迷いまくってでも選択し直すべきと思います。

人生は一度きり。

「やりたいことを貫く生き方」をもう一度。