飛紅真の手紙

自然、アート、社会問題を、精神看護専門看護師が綴る。

共働き家事育児分担、夫婦で完全に半分にするのは不可能じゃない。

共働きの我が家は、家事育児は完全に半分,平等です。

結婚前から家事育児完全分担を目指し、10年維持し続けてきました。

 

1.独身時代から私の考えは揺るがなかった

思えば、独身時代から「家事育児ができない人とは結婚しない」がポリシーで、周りにずっと宣言してきたと思います。

私の親世代は女性が働き出したものの、家事育児介護はほとんどが女性という完全ワンオペ時代です。

ジュニア世代の女性たちは、結婚に疑問を感じ始めた世代だと思います。

私が小学生の頃、両親は30代中盤ですが、共働きの両親の家事育児はほぼ10対0で母が担っていました。

さらに祖父の自宅介護も完全に母の役割となり、最期は病院に泊まり込みで介護し、介護負担から腰痛ヘルニアになり仕事を辞めざるを得なくなるほど。

小4年の私には「結婚への絶望」を深く刻んだ決定的な出来事だったと思います。

両親が40代で二人とも転職し、父の仕事時間が大幅に変わったことで父も洗濯、ゴミ出し、子どもの行事、地域の掃除を担うようになりました。

それでも8対2の割合で家事育児は母親がほとんど。

どちらも8時間労働のはずが女性が家事育児を7割担うことに、子どもながらに「なぜだろう」「女性だけが我慢するべきなのか」と疑問を抱えたまま育ちました。

 

希望した大学受験に失敗した結果、看護大学へ進学して看護師免許を取得し、独立してからは生涯働くことを決めていたし、大学院に進学してキャリアアップしていくことを目指していたので、20代は結婚願望ゼロ。

想像すらできなかったし、むしろ結婚することが「人生の障害になる」とさえ思っていた頃です。

病院を退職し、大学院に社会人入学して2年間じっくり自分の時間を得たこと、妹が結婚し出産を機に看護師の仕事を一旦辞めたこと、逃げ恥ブームが到来したことなど、

再び家事育児分担や家庭運営のあり方を自分ごととして考えるようになりました。

印象強かったのが、大学院の同期たちと「逃げ恥」について議論になった時のこと。

「結婚したから自動的に女性が家事育児をするのが当たり前って、まさに愛情という名の搾取だよね~」と私が主人公の言葉に強く共感を示したところ、

既婚男性の同期は「女性が男性のために家事や育児をしてあげたいっていう気持ちは愛だよ」「それが本当の愛」と、主張はまったくの平行線でした。

家事育児=愛情だから当たり前で片付けられてしまう。愛情の名のもとに女性に強いる。できないと主張する女性は愛情が足りないということになる・・・。

論理的で明晰でさまざまな社会問題も鋭く議論できる1歳年上の男性看護師なのですが、その時ばかりは「女性=母性」というステレオタイプが強いことに幻滅した覚えがあります。

既婚者で看護職の発言ということに、悔しさとがガッカリ感が強すぎて私はそれ以上反論する気にもなれませんでした。

家事育児論争は最終的に「愛情」「母性」で蓋をされてきたように思えてなりません。「やっぱりそこは女性がやった方が早い」

「女性の方が細やかでよく気が付くから」

「母親じゃないとできないから」

「本能だから」

と、ジェンダー(社会文化的な性)について話しているのに、最終的には生物学的な性差で議論を回収されてしまうことを何度となく経験してきました。

そんな私がまさか結婚をするとは・・・両親や妹、親友など私をよく知る身近な人たちが一番驚いていました。

おそらく、結婚に対する考えが少しずつ変わってきたのは、大学院時代に付き合っていた現在の夫と出会ったこと。夫は働きながら自活して完全に自立した生活を送っていたことと(むしろ料理は私よりできます)、「高校の頃には一人で生きていくと親に宣言した」という完全な自由人だったことが妙にしっくりきました。

ひとり暮らしの男性の自活ぶりをちゃんと見たのも、その時が初めてだったかもしれません。

「やるじゃん」みたいな、夫を通して男性に対するイメージが好転していきました。

修士論文、専門看護師実習、再就職、専門看護師認定試験・・・と、正直「いま結婚なんてしてる場合じゃない」ほどの人生の分岐点に、結婚についても考えることとなりました。

「仕事と両立するためには家事育児完全分担」が必須条件となったのかもしれません。

 

2.結婚生活がスタート、家事育児分担のトライ&エラー

入籍し、結婚式に向け「夫婦の10か条」なるものを二人で話し合って決め、その中に「家事育児は夫婦で分担する」というのを入れました。

プロに書いてもらったものを結婚式(人前式)で読み上げ、みんなを証人にしたわけです。


かといって、最初からうまく家事育児分担の仕分けができたかといえば、そうでもありません。

自立した二人が何となく共同生活を始め、模索し合いながら分担していった感じです。

食事の支度が最も難易度の高い家事だと思いますが、これも完全に半分ずつ分担。

結婚当初、食事の支度は先に早く帰った方が行っていましたが、長男を出産し時短勤務で復帰してからは、帰宅が早い私の方が夕飯、夫が朝食作りが定着しました。

私立幼稚園が前身の認定こども園は行事や委員会活動が多く、それも平日の午前中ということが多く、

長男の時にはただでさえ熱を出して仕事に穴をあけることが多かったため、ここが仕事との両立のつらさを一番ひしひしと感じる部分でした。

しかしながら、母親だけが行事や委員会活動をするのではなく父親も平等に、と夫も仕事を調整して分担。子どもが熱を出したりしたときのこども園のお休みも夫婦で交代。送り迎えも分担。

 

我が家は家事育児すべて、「私しかできない」「夫しかできない」というものは存在しません。

「わからない」「できない」と責任逃れするのはナシにしようというのがルールです。

究極、「どちらかが欠けても生活が回るように」というのが理想です。

そんな夫も、長女が生まれる前までは、「世の中の父親なんてほんと何もしないからね?」「俺はすごくやっている方!」なんて恨み言を言っていたこともありましたが(笑)、

私はひるむこともなく、「世の中ってどこ?西欧では育児はフィフティーフィフティーだけど?日本の方がおかしいから」と一蹴していました。

私は「いまは育児を思い切り楽しみたい」というのが一番なので、仕事を6時間勤務に抑えました。

毎日2時間勤務時間が短いと、その分給与やボーナスは減ります。毎月給与明細を見るたびに「あ~」「時短にしなければな~」と思うこともあります。フルタイムをやろうと思えばできるのでしょうけど、それはいまの私の選択肢にはありませんでした。

私がフルタイムで疲れ切ってギスギスし、時間がない毎日は、家族全員にとっても不幸だと目に見えています。

夫はフリーランスなので、長時間労働のサラリーマンとは時間の使い方がそもそも違います。夫は経済的安定よりも自由を取った感じです。

夫婦で「家事育児を大切にする」というベクトルを合わせたからこそ、我が家は家事育児完全分担が成り立っていると私は思うのです。

 

夫に「なんでうちは育児家事分担ができてると思う?」と、前振りなく聞いてみました。

夫:「ひとりでも生きていけるように自立してきた。ひとり暮らしで培った。家族は共同生活者としか思っていない。家族は共同体って思いがあるから」と、キッチンで夕食の片づけをしながら語っておられました(笑)。

 

3.共働き家事育児分担を半分にするためには

男女不平等大国“日本でも、夫婦の家事育児平等は実現できると思っています。

そのためには、女性の「実現してやる!」というマインドや根気が不可欠とも思っています。女性自身が「そんなの無理」と最初から諦めないこと。私の場合、そこに関してのこだわりが半端なかったのですが、これは「権利」でもあるのですから、女性が主張し続けるしかないと思っています。

夫婦で長時間労働も見直さなければならなとも思います。長時間労働のサラリーマン夫が家事育児に避ける時間が少ないのは当たり前。

仕事だけが人生の価値とは思っていなかったはずが、「みんなそうだから」「しかたない」と、いつの間にか疑問を持たなくなってしまう思考停止にも気を付けたいです。

家事の時短や効率化についても、「安いからスーパーをハシゴする」「鍋やフライパンで調理する」「掃除機をかける」などのこれまでの「家事の当たり前」を根本から見直す必要もあります。

一時的な投資は必要になりますが、1日あたりのコストは少なくその分時間や労力が節約できる費用対効果は抜群です。

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www.hikoushin.com

 

「共働きで家事育児分担なんて不可能」

「夫にいくらお願いしてもダメ」

「妻がやった方が早い」

「妻がやるのが当たり前」

と、できない言い訳を探して現状に妥協しても何一つ変わりません。

「できない」ではなく「やる」。

私は誰かが女性の立場を変えてくれるなんて1㎜も期待していません。

自分の家庭から変えるしかないと思っています。

 

仕事、結婚、家事、育児、介護・・・

ジェンダー問題を爽快に教えてくれるのがこの一冊です。

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もう「女の子」という歳ではないけど、自分で選択していくしかないのだといつ読んでも厳しく優しく背中を押してくれます。

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