飛紅真の手紙

フェミニストの精神看護専門看護師ブロガーが、自然、アート、社会問題を綴る。

「子どもの自殺」をテーマにした絵本を読み聞かせて感じた「わからなさ」を丸ごと受け入れることの大切さ

「自殺」をタブー視せず向き合い、「なぜ子どもが死を選んだんだろう?」という「わからななさ」を伝えたいと思い、自殺に関する絵本を読み聞かせました。

『ぼく』 ↓ ↓ ↓

闇は光の母 (3) ぼく (闇は光の母 3)

「ぼくはしんだ じぶんでしんだ」という言葉から始まる詩は、

大人が読んでも、「どうして どうして」という、

主人公の小学生が死を選ばなければならなかったことへの「わからなさ」「不全感」が胸にずっと残ります。

わかりたいのに、主人公の気持ちはきっと誰にも本当にはわかるはずなんてない。

「自殺」について、周囲はわかった気になってはけないのだ、と思い知らされます。

 

長男に読み聞かせてみると、途中から「どうやって死んだの!?」と食らいつき、

「どうして死んだの!?」「どうして?」「どうして?」と、連呼していました。

終始子どもから向けられた「どうして」の疑問については、

「どうしてだろうね、この子にしかわからないよね」と率直に返答しました。

 

読み終えた後、長男に感想を聞いてみると、

「どうやって死んだかが気になる」という自殺方法への関心と、

「その子が死にたかったんだから死んだってしょうがない」

という意見でした。

「あっさり割り切ってるな~」と度肝を抜かれましたが、

私は一人の親から精神看護専門看護師の顔になり、

「誰かの助けが合ったら死ななくてもよかったかもしれないよ」

なんて、自殺予防を語り始めてしまったのですが、話しているうちにだんだん説教時見ている自分が嫌になってきました。

これは、小学2年生の長男の一つの意見として学ぶところがあるのではないか、とも思ったのです。

その時ふと、看護大学大学院の「病いの社会学的現象学」という授業で社会学の先生の言葉を思い出しました。

 

その授業は、それぞれ院生が自分で選んだ当事者の手記を読み込み、当事者目線での病いの体験をまとめてプレゼンする講義スタイルでした。

自殺遺族の手記について、「自殺」についての議論になった時のこと。

院生間で「自殺はあってはならないこと」「予防すべきこと」という論点でまとまりかけたところ、

先生は、「人間には自殺する権利がある」と、ただそれだけ言い放ちました。

当時の私にはハンマーで後ろから頭を殴られたように衝撃的な一言でした。

その授業を受けた1年前に、働いていた精神科病院で、

勤務中にうつ病の患者さんの自殺に遭遇した経験をして、

私の中での「どうして死んだの」という疑問と怒りが続いていた頃でした。

「どうして家族を残して自殺したの」

「どうしてあんなに話を聴いたのに自殺したの」

と、当事者が自殺を選ぶ気持ちに寄り添えない心境でした。

怒りの方が強く、患者さんを無意識に責めていたのかもしれません。

 

自殺について考えるとき、遺された周囲は「わからなさ」を一生抱え続けます。

けれど、当事者の自殺という「わからなさ」を勝手なストーリーで回収しようとするのは、周囲の自己満足でしかないのではないか、と思います。

死にたいほどの気持ちや背景に思いを馳せ、

当事者の「自殺する権利」にも謙虚でなければならないのかもしれない、と思ったのです。

と、同時に自分の傲慢さを恥じたのでした。

 

長男の言葉には、

「わからなさ」も丸ごと受け入れ、

「人は死を選ぶこともある」という一種の諦めや人間のはかなさに対するまなざしがある気がしたのです。

当事者の「自己決定」に対する謙虚さは、特に支援者は自問自答し自戒すべきだと思うのです。

 

わからないけど、わかりたい。

自殺した人にもう聴くことはできないから、ずっと考え続け、問い続けていく。

不確かさ、危うさの連続性の中で私たちは生きているのかもしれない。

「わからなさ」を抱擁し、少しだけ距離を取ることって大切なのかも、と思わずにはいられないのでした。

 

谷川俊太郎さんの詩が絵本になった作品を知ったきっかけは、この番組から。↓ ↓ ↓

www.nhk.jp