飛紅真の手紙

フェミニスト&ワーママブロガー、自然、アート、社会問題を綴る。

ボディ・ホラー映画がたまらなく好き!(その2) 「精神医療の傲慢さ」をえぐり出す映画『ザ・ブルード/怒りのメタファー』

デヴィッド・クローネンバーグ監督自ら脚本を書いた70~80年代初期作品の中で、一番好きなのが『ザ・ブルード/怒りのメタファー』。原作ものよりも、監督自らが考えた物語の方が唯一無二の素っ頓狂さでめちゃくちゃ面白いのです。

 

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ストーリー

幼少期に母親から受けた虐待が原因で精神疾患を患う妻ノーラは、精神科医ラグラン博士の「サイコ・プラズミック療法」を受けるため、郊外の精神科病院に入院していた。しかし、ノーラの夫フランクは妻を隔離し面会させないラグラン博士の実験材料にされているのではないかと不信感を抱く。その頃、娘キャンディの背中に赤いアザを発見したフランクは、ノーラとの週1回の面会で彼女から虐待を受けているのではないかと疑惑を抱く。一方、ラグラン博士は人間の怒りや憎しみを肉体的に表出させる(腫瘍化)ことで精神症状を改善させる人体実験を行っていた。その頃、フランクの周辺では小人のような謎の生物による惨殺事件が続発していた―。

 

1.精神科医の愚かな野望

クローネンバーグ監督の物語の中には必ずと言っていいほどマッドサイエンティストが登場します。科学者や医学者の知的好奇心が元で必ずやらかしてしまうのですが、今回は精神科医がターゲット!!!自分が開発した治療法で患者を治せると信じ切った精神科医が、恐ろしく悲しいモンスターを生み出すことになってしまうのです。

精神疾患は血液データにもX線にも映らない、目には見えない疾患・障がいだからこそ周囲から理解されにくいものです。だからこそ、精神科医ラグラン博士は傷や腫瘍化など「実体化」させて、目に見える形で治療したかったのだろうと思うのです。その気持ちはわかる気がします。

また、治療法の研究開発は実際に試さないと人間に応用できない。被検者の犠牲の上に成り立っているわけです。人道に反した研究や犠牲が大きすぎる研究には、ニュールンベルグ綱領(1947年)やヘルシンキ宣言(1964年)などの研究倫理が歯止めをかけているのですが、それでも規制が甘かった当時は何でもアリな状態。

 

2.かつてノーベル賞を受賞した「精神外科」という恐ろしい分野

本作は1979年にカナダで製作されています。1975年にはアカデミー賞主要5部門を受賞した精神科医療の愚かさを暴いた金字塔『カッコーの巣の上で』が上映されました。クローネンバーグ監督の意識の片隅にも、『カッコーの巣の上で』で犠牲になった患者や冷徹な医療者の姿が刻まれていたのかな?とも思わずにいられません。

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『カッコーの巣の上で』では、非人道的治療ロボトミーが描かれました。外科手術による精神疾患の治療は「精神外科」と呼ばれ、ロボトミーは「精神外科」のひとつ「前頭葉切せつ術」といって、大脳の一部を切り取ると穏やかになるとされました。ロボトミーの元となるロイコトミーを開発したエガス・モニスは1949年にノーベル医学・生理学賞を受賞しています。

ロボトミーはのちに長期に人格崩壊が起こることがわかり、手術は廃止、現在も被害者団体がノーベル賞の剥奪を求める運動を続けているそうですがいまだ剥奪されていません。日本には1942年に導入され1970年代まで実施されていました。私の住む地域にも、1960年代まで病院内に「精神外科」という診察室があり、ロボトミーや脳解剖をしていたと聞いて、大昔の出来事ではなかったのだと感じます。

医学は時に、暴走します。過去にも患者の尊厳を無視した暴挙が繰り広げられてきました。社会から隔絶され実態が見えにくい精神科病院ではまさしく暴挙が起こりやすいのです。

 

3.人は因果応報、自業自得を繰り返す

クローネンバーグ監督は、人間は因果応報、自業自得を繰り返す愚かな存在なんだ!!!と、精神科医ラグラン博士自らが開発した治療法によって自滅していくさまを、そして虐待親がその子どもに報復され自滅するさまを、激しくそしてちょっとやりすぎなくらいにメタファー(比喩)として表現していると私には思えました。

本作では、虐待親から受けたトラウマを克服しようと精神科医ラグラン博士を信じた結果、身体変容させられた女性ノーラが登場します。トラウマ治療としては激しすぎる暴露療法を受け続け、どんなにか苦しかったろうと思います。あまりの苦しみが、驚異の身体変容につながり報復のためだけに生きるモンスターを生み出しました。行き過ぎたトラウマ治療は虐待親への「報復」という形でしか昇華されず、最終的にノーラに返ってくるという、なんとも悲しい結末を迎えます。

精神科医ラグラン博士は自業自得だったとしても、虐待の被害者ノーラに救いはあったのだろうか?少しでも苦しみから解放されたのだろうか?と考えると、とってもやりきれない後味の悪さが残ります。

虐待という不幸の連鎖はどこまでも続いていくのか?クローネンバーグ監督が不幸の連鎖の物語を生み出してから、約50年経った現代でも、トラウマ臨床における教訓めいたもの本作を通して見た気がしました。

ノーラに救いは?