相模原障害者施設殺傷事件を題材にした映画『月』。公開1年経って本日ようやく観て、精神看護専門看護師の立場から考えたこと2つ、記録しておこうと思います。
1.知らないから倫理観も育たない
虐待は「知識不足」「理解不足」から起こります。
映画の中の支援者は専門職ではなく、あまりの知識のなさに驚きました。障害者施設の支援者は「生活支援員」といい、専門資格も要件も特に必要なく、無資格・未経験者OKです。支援者の教育は非常に重要なはずなのに、施設任せになっている。それがこの国の現実です。
私は新卒からずっと精神科病院で働いてきましたが、障害者施設同様、無資格の看護補助者(看護助手とも呼ぶ)の割合が多いので、お世辞にも接遇がよいとはいえません。「こんなに勉強したのは久しぶり」「1日座りっぱなしでお尻が痛い」と言われるくらいさまざまな院内研修をして、ようやく支援のスタートラインに立てるかどうか・・・という感じです。
事件前の津久井やまゆり園では障害者への長期にわたる虐待が指摘されています*1。無資格で採用されるだけでなくその後の教育も不十分だから支援の自信が持てず、士気の低下が起こり、先輩たちの不適切な助言が最後の一押しになって、虐待が起こるのです。
個人の倫理観の問題に帰す前に、ちゃんと支援者に学ばせているか、国も施設も問わなきゃいけない。障害に対する正しい知識がなければ、何が善くて何が悪いのか倫理的に考えることはできません。
「教育水準の低いやる気がない人しか集まらない」「支援者の質は低くても仕方がない」という偏見や諦めがないだろうか?精神科病院も全く同じ問題を抱えています。映画『月』の中でも、さとくんが「この施設は社会そのものなんだよ」と言ったように、障害者施設も精神科病院も、この国の人権意識の写し鏡です。
2.支援者が誇りをもてない
映画『月』の支援者はみな、「私なんてこんなところでしか働けない」と自己卑下していました。そう、障害者支援を行う支援者は、自尊心が低い人が多い。「自分たちの仕事に誇りが持てない」「社会から必要とされていない」と考え、劣等感を抱えているのです。
精神科病院でも、2020年に神出病院事件、2023年に滝山病院事件で逮捕者を出す虐待事件が起こり、精神保健福祉法が改正され虐待防止措置が施行となりました。精神科病院は、国が監視しなければならないほど虐待が起こりやすい構造なのです。
虐待の根深い問題が、この「支援者の誇りのなさ」です。強制入院、身体拘束や隔離、長期入院など、本来ならやりたくもないことをやる側に回らされます。支援者自身の無力さや人権意識を問われ、看護師としての誇りが木っ端みじんになるので、そのうち心を麻痺させて働くようになるのです。このあたりの描写が映画『月』では見事でした。
大学時代から精神看護を志していた私にとって、この根本問題こそひっくり返したいと闘志を燃やしてしまう対象なのですが・・・。
ただでさえ心を歪ませながら働いている支援者に向けて、「虐待はやめましょう」「虐待の芽を摘みましょう」といっても、「コッチは必死にやってる!」「虐待と言われたら何もできない!」と猛烈に反発されるだけです。
支援者が欠点や弱点ばかりに目を向ける「問題解決指向」に陥るのではなく、患者の夢や強みなどの「いいところ探し」をするストレングスモデルを支援者に知ってもらい、もっと肩の力を抜いて楽に支援をしてもらうことの方がよっぽど重要です。
その人のストレングスを見ようとする視点をもつと、支援者自身も勇気づけられ元気になれます。支援者自身が希望を持て、誇りを取り戻せるのです。さらには、誇りを持って働く管理者や同僚の存在は支援者の道しるべともなります。
やりがいを失くして疲れ果て、さまよった支援者が行き着く先が、「虐待」なのか「ストレングスモデル」なのかは大きな分かれ道。私は新人研修でここをまず叩き込みます。障害者施設でどのくらい浸透しているかはわかりませんが、少なくとも精神科病院ではまだまだ全国的に根付いていません。
支援者が支援に誇りをもてないと対象者を大切するどころか、虐待に至ります。支援者が誇りを持てるためにも、もっと支援者が大切にされてもいいのではないか?教育と誇り。映画『月』を観るときには是非考えてみてほしいテーマです。
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