私が精神科の看護師になって、精神障がいをもつ人を支援しながらずっと抱いてきた感覚があります。
それは、当事者の苦悩や傷つきを本当にはわからないという歯がゆさであり、そんな支援者の存在が彼らの回復の邪魔になることさえあるという、存在意義のなさです。
この感覚は、「当事者でもあり支援者でもある」人たちとの出会いで、より一層強くなりました。
私が病棟看護師時代の受け持ち患者であり現在の私の同僚、そして性暴力サバイバーでもある支援者たち。その人たちの言葉を聞くと、「私は何をわかった気になっているんだろう」と恥ずかしさで身の置き所がなくなります。
「バッサリ斬られた!!」「私のモヤモヤを見事に言語化してくれている!!」と爽快な本と出会いました。
グサグサと支援者の心をえぐるのです。
性暴力サバイバーでもある哲学研究者・小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』。
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私が観ている数少ないTV番組の一つで紹介されていました。
「これは是非読みたい!!」と、kindle版をさっそく購入し、メモしながら読みました。
小松原織香さんは、性暴力サバイバーとして、当事者を無自覚に傷つける支援者、当事者を都合よく研究材料にする研究者への怒りや憎しみ、恐怖、落胆を述べています。
一方で、自身も水俣病患者を研究する哲学研究者の立場から、「支援者には当事者の苦しみはわからない」という気付きを得ています。
中でも、当事者の「あなたにはわからない」という言葉は「わかってほしい」の裏返しで相手に対する期待である、という一説に、「なるほど」と思わず声が漏れました。
まさに、私はその言葉を両方とも当事者に言われたことを思い出したのです。
その人は、10年以上も前に精神科病院の閉鎖病棟で私が受け持っていた患者であり、現在は私と同じ職場で障がいをオープンにして障がい者雇用枠で働いています。
私の相談室にもよく訪れ、当事者でありながらもいまは私たちと同じ支援者としてフォローしてきました。
ある時、同じ部署の同僚から障がいのことで心無い言葉を掛けられたことにひどく傷つき憤り、相談室に駆け込み怒りをぶつけてきました。
「支援者が障がい者を差別するなんて」と驚きや怒りを露わにしていました。
「ねえ、私の気持ちがわかる?」
「お願いだから、わかってよ!!」と私をなじったかと思うと、「支援者には当事者の気持ちはわからない」と悲しそうな表情で吐き棄てるように言いました。
私は、支援者の無力さを責め立てられたような気持ちと、これまで寄り添ってきた私の気持ちもなかったことにされるような気持ちで、思わず「私は当事者じゃないからわからないかもしれないけど、あなたのことを理解したいといつも思ってるよ!!そのつもりで話を聴いてきたよ!!」と発していました。
彼女は冷静でない私の言葉に驚いた様子で「ありがとう、ごめん」と言い、その後は落ち着いて話をすることができました。
彼女は当事者でありながら支援者となり、精神科病院の支援者の現実を知り大きなリアリティショックを感じていたと思います。
その後も、事あるごとに彼女は怒りや疑問を相談室で吐露しては職場に戻っていきます。
当事者としての悔しい体験が彼女を突き動かし、現在、働きながらも「ピアサポーター」としてボランティアで当事者に寄り添う活動を始めています。
そんな彼女を私はリスペクトしています。
特に当事者が支援者になると強大な力を持ちます。
当事者の苦しみや傷みを同じようにわかる支援者にはかないません。性暴力被害者支援をする人の中には、高い確率でサバイバーがいることも知りました。
その人たちのカミングアウトを前に「ああ、私には語れる言葉が何もない」と無力感でいっぱいでした。そんなことを私が嘆いても仕方ない。一番苦しいのは当事者なんです。そして、たくましい力を秘めた輝ている人たち。
どんなに勉強し研究しても専門知識や知見が増えるだけで、当事者の苦しみや傷みを同じように体験することなんて決してできません。
こんな当たり前の感覚を、支援者は時間がたつにつれどんどん麻痺させ、忘れていきます。
そして支援という名の押し付けや保護・管理、二次被害を無自覚に当事者に与えてしまいます。
「当事者にはなれない」「当事者のことをわからない」を前提に、想像し考え続けることが、支援者として当事者のそばに立ち続けるための資格なのかもしれない、とも思うのです。
知らないからこそ知りたいと思う、わからないからこそ理解したいと願う。
当事者と支援者の間の、越えられない決定的な立場の違い。
その違いからスタートするしかないんですよね。