飛紅真の手紙

フェミニストで精神看護専門看護師ブロガー、自然、アート、社会問題を綴る。

「母親になって後悔してる」を読んで、スーパーマザーになる必要なんてないと思った。

『母親になって後悔してる』というショッキングなタイトルの本を、2022年12月放送のNHKクロ―ズアップ現代で知り、つい先日読みました。 

子どもを産んで後悔しているイスラエルの女性たちをインタビューし、社会学の立場から考察した本。特に母親たちの反響が大きく、Amazonレビューも熱がこもっていて興味深く読みました。

母親になって後悔してる

で、私の中に残ったのは、「後悔なんて大なり小なりみんなあるでしょ。だけど後悔したその先も母親たちの人生は続くんだよ。そんな母親たちはどういう気持ちで生きていきゃいいの?」という身も蓋もなさでした。

「産んでみてこんなに大変だとは思わなかった」「自分の人生が全く変わってしまった」とリアリティショック(理想と現実の違い)は、今も昔もそんなに変わらないんじゃないでしょうか。育児・家事・介護を女性に丸投げ・タダ乗りする社会は(北欧を除いて)、今も昔もそんなに変わっていないからです。

女性が子どもを産むという生殖機能をもつ限り、「女性は子どもを産むべき」「母親とはこうあるべき」といった「母性の神格化」からは永遠に逃れられません。

けれど、それでも産むことを選んだ母親は、「産んだら最後、自分で選んだんだから自己責任ね」ではなく、困難な中にも将来への希望がなければとてもじゃないけどやってられません。

 

私が結婚や子どもを持つことを自分一人の意思だけで決めたとは到底思えません。特に20代後半で病院勤務を辞めて大学院進学を決めたときには、「次は結婚を考えないと」「そろそろ女性の幸せを追求したらどう?」と、かなりの同調圧力を受けたことを思い出します。

上昇志向の私はどこからどう見ても結婚したいようには見えなかったので、このままでは独身を貫くのではと心配になったからかもしれないし、または「あなたばかり好きなように生きてズルい」という無意識の嫉妬心からかもしれません。

結婚しても、一人目を産んでも、同調圧力は続きます。もはや洗脳。それは「自分の子どもは特別かわいいよ」「子どもがいない人にはわからない」「子育て経験がないといい看護はできない」「一人っ子はかわいそう」という言葉であり、大変だけどかわいい、子育ては尊い、母親ならいろんなことを我慢すべき、という自分を犠牲にして育児に奔走する姿を見せながらの無言の圧力であり。

結果的に私は結婚して子どもを産んでよかったと思えるけれど、そういった周囲のノイズなしに、「ちゃんと自分で考えで決めたかった」と思います。結婚や出産をかなり焦らされ、結婚しなきゃ、子どもを産まなきゃ、育児も家事もちゃんとしなきゃ、子どもを産んでからもちゃんと働かなきゃ、的な「スーパーマザー」であることの強迫観念を植え付けられたと思います。

「母親ならこうあるべき」を振りかざす「マタニティハラスメント」は昔から公然と繰り返されてきました。そう言った暴力に「マタニティハラスメント」という言葉が与えられ、そして、ようやく母親たちが「NO」と言える時代になっただけです。

 

で、これから母親たちはどう生きていきゃいいのか?

母親がどんどん発言していくしかないのだと思います。

「昔からこうだったから仕方ない」と社会のステレオタイプを嘆いて待っているだけでは何も始まらない。「私は家事が苦手だから家電や外注に頼ります」とか、「パートじゃなくてフルタイムで仕事がしたいからあなたの勤務時間を調整して」とか、「育児のキャパがないから子どもは一人だけにしたい」とか、「子どもが熱出したけど、今日はあなたが休んで」とか、もっとどんどん主張するべき。これまで通り「発言しない」=「最初から母親に不満などない」ことにされかねません。

性暴力被害を受けた女性たちが声を上げ続けたことで110年ぶりに刑法が改正されたことを思うと、当事者の言葉には法律さえも変えてしまうほどの強さを感じます。

家事育児介護仕事のすべてを完璧にこなす「スーパーマザー」なんてならなくっていいんです。仕事を選んだママも、育児を選んだママもどちらも尊重されるべきです。キラキラした強迫的なママが増えるとむしろ多くの母親たちが生きづらくなるのでどうかやめてもらいたい。。。

母親が本来やりたかったことを一人の人間としてもっと尊重されるべきです。そうすることで母親が「家事育児をしなくなる」「子どもを産まなくなる」という強い危機感が家父長制社会にはあるのでしょう。

母親が何をするか父親が何をするかなんて自分たちで決めたらいいんです。「性役割」を勝手に自分たち以外の人に規定されたくない。母親が「家事育児」を頑張れないんだったら、父親や周囲が支援すればいいって考えにはどうしてならないのかなぁ。

パートからフルタイムの仕事を始めたことで夫婦の価値観の違いが浮き彫りになり離婚した知人がいます。彼女は「私は仕事に生きる」と家庭と仕事の両立を願っていた人でした。最後の最後のところで知人の夫はそれが受け入れられなかったのです。

お互いを尊重する対等な関係性だったように外野からは見えていたけれど、実は男性側に「妻には家で育児と家事をしてほしい」という大きな理想があったのです。よく知人は「専業主婦の義母の介入が強い」「夫はご飯すら炊いたことがない」と嘆くくらい前時代的なご家庭。

しかしながら、離婚を選び自分に正直に生きる知人には女性としての強さ、自立心を感じるのです。そんな知人は「シングルマザー差別がひどい。弱者扱いされる」と嘆いていました。

母親がどんな選択をしたとしても、母親を一方的に責める社会ではなく、母親の選択を補強できる社会であるべきじゃないでしょうか。もう十分母親たちは背負ってきたのですから。

かくいう私も、時々意識しないと「スーパーマザー」になろうとしている自分に気づきます。けれど完璧にやろうと無理をすると子どもや夫や自分のどこかに「ひずみ」が出るのです。「おっといけない!」「手を抜く!ズボラくらいがちょうどいい」「どんどん人に頼も~」と思い直して、ダメな自分をよしよししてあげるのです。

「母親」っていうだけで、社会の無言の圧力に応える必要など最初からないのです。

 

NHKだけじゃなくあちこちのメディアでこういう問題を取り上げてほしい。

www.nhk.or.jp