飛紅真の手紙

フェミニストで精神看護専門看護師ブロガー、自然、アート、社会問題を綴る。

「生まれてくれてありがとう」と言いたくなる映画『ベイビー・ブローカー』

私は「赤ちゃんポスト」肯定派です。なぜなら、産んでもどうしても育てられない事情は必ずあり、生後0日死亡(新生児殺)を防げるから。

つまり、母親側も子ども側をも守ることになる最後の方法と考えるからです。

 

1.映画『ベイビー・ブローカー』

2022年6月に公開された是枝裕和監督作品『ベイビー・ブローカー』を遅ればせながらAmazonプライムで観ました。普段ニュースも観ないので事前情報もなく「人身売買の映画かな」くらいで観ました。是枝監督作ということも観終わってから知ったくらい(汗)。

表面上は、「赤ちゃんポスト」に入れられた赤ちゃんをこっそりと連れ去り売買する裏稼業の話ですが、その奥には深すぎるテーマがいくつも横たわっていたのでした。

赤ちゃんを捨てる母親も、赤ちゃんを売買する男二人も、みんながみんな、親に捨てられ養護施設で育ったり、親元を逃げ出した生い立ち。そして、大人になったいまでも「自分は生まれてこなければよかったのか?」という答えのない問いを問い続けていたのです。

人身売買は紛れもない犯罪ですが、男二人が赤ちゃんを自分たちで売ろうとする理由には、是枝監督が『三度目の殺人』や『万引き家族』で描いたような、望ましくはないが社会にとって必要なこと=“必要悪“が本作でも見え隠れしていました。

つまり、赤ちゃんポストに入れられた後、劣悪な養護施設で育つことが最善とはいえないし、虐待するような養父母との養子縁組が最善ともいえないし、闇市場に転売されるかもしれない。だから自分たちが売ってもいい相手か見極めて売るという、彼らなりの正義ということ。

「生まれてくる環境も親も選べない」という世の中を残酷さを突きつけてくる作品でした。

 

2.母親が赤ちゃんを捨てる理由

作中で、一度は赤ちゃんを捨てた若い母親がブローカーの男二人と、赤ちゃんを買ってくれる(もちろん違法ルートで)養父母を探す旅に出ます。

彼女は赤ちゃんへの愛情を押し殺しながら、捨てなければいけない理由から赤ちゃんにふさわしい養父母を、彼女なりの正義で探します。

そして、彼女の「あんな人たちに育ててほしい。そうしたら、私みたいにならずに済むから」というセリフがあまりにも切ない。若い彼女のつらい生い立ちがにじみます。

 

育てたくても育てられない理由は、望まない妊娠(不倫や売春、避妊の失敗、避妊に協力してもらえない)、貧困、虐待、犯罪、病気や障がいなどさまざまな理由があるでしょう。中には恋人、顔見知り、親族、義父や実父などからレイプされ妊娠し、中絶を選べない・選ばない母親もいます。

そして、自分で育てることを選ばず・選べず、一人で悩み、相談できる大人や社会資源にたどり着かないときに最悪な結末に至るのです。生後0日死亡、つまり新生児殺です。誰にも知られずに生み落とし、母親自らの手で殺すのです。それは自ら赤ちゃんに手をかける場合もあるし、置き去りにする場合もあります。

毎年、若年の母親が新生児をトイレに流す、ロッカーに置き去りにする、埋めるなどといった悲惨な形で、保護責任者遺棄事件は起きています。

そんな生後0日死亡を防ぐために作られたのが「赤ちゃんポスト」であり、「特別養子縁組制度」です。「母親の身勝手だ」「簡単に子どもを捨てるな」などという反論が必ず起こりますが、このような現実の中で私は決して反論する気にはなれません。むしろ母親も子どもも両者を救う重要な選択肢だと考えています。

子どもを捨てるな、身勝手だ、と母親だけを責める前に、もっとやることあるでしょう?

男女とも正しい避妊の理解、性行為の前に性的同意を確かめる、SNSでのグルーミング(手なづけ)やパパ活(児童買春)の厳罰化、性虐待対策、男女の賃金格差をなくす、シングルマザーへの経済支援などなど・・・。

子どもを捨てる選択肢を選んだ母親の背後には、必ず父親がいるはずなのです。一体なぜ父親の存在感は薄いのでしょう?父親は母親と同じように、自分の人生が変わるくらいの責任を取っているのでしょうか?父親の存在感のなさ、責任感のなさ、そのこと自体がそもそもの原因の一つなのではないでしょうか。

 

3.捨てられた子どもの心

日曜日の昼下がりのリビングで本作を観ていたのですが、長女や夫の目もはばからず何度も泣いてました。

どん底の悲しさと温かい気持ちとがごっちゃなり、めちゃくちゃ胸をかき乱されたシーンがありました。

赤ちゃんを売る前夜、赤ちゃんと母親、ブローカーの男二人、養護施設から付いてきた男の子の5人の疑似家族で過ごす最後の夜。最後に赤ちゃんに何か言葉をかけてやったら、というブローカー男からの提案で、「生まれてくれてありがとう」と、彼女が全員に言葉をかけるのです。まるで全員の母親のように。そしてそれぞれがいろんな思いで受け止める。

生まれてくれてありがとうは、存在の全肯定。

子どもは親からこの言葉を一番聞きたいよね。

でも、それがどうしたって叶わない子どももいる。

自分を捨てた実の親を恨み、「生まれてこなければよかったのか?」と自分の存在を肯定できない子どもだっている。

そんな子どもたち、(そんな子どもだった)大人たちが、心からの「生まれてくれてありがとう」を、実の親からじゃなかったとしても、いつか大切な誰かから聴けることを願う。

「血のつながった家族がいない=不幸、ではない」「実の親が育てることが必ずしも子どもにとって幸せとはいえない」ということも考えないといけない。

そして、自分の存在を肯定してくれる他者がいるからこそ、自分で自分の存在を肯定できるっていうところもまた、人間臭さなのかもしれない、と思ったのでした。