キリスト教系こども園に通う長女、最後のクリスマス礼拝とページェント(キリスト誕生シーンの劇)を終えました。長男も含めると、6回目。
私含め家族はクリスチャンではありません。きっと、「アーメン」と手を組んでお祈りしたり、ページェントを観ることはもうこれで最後かも、と思うと寂しいものがあります。
クリスチャンではないのに、こども園を通してクリスチャンの疑似体験をさせてもらったようなものです。いろいろな発見や感動が多かったのを記憶しています。
・お休みのお友達のことを思ってお祈りすること
・「神さま」というセリフが日常的に交わされること
・「神さまに守られている」ことに感謝すること
・誰かのために祈ること
・祈りの力のすごさに気づかされたこと
そして、何よりもクリスマスはキリスト生誕を祝うだけでなく、「世界中の苦しんでいる人、困っている人、悲しんでいる人のことを思う日」ということに、ハッとさせられたのです。
クリスマスは恋人たちのもの、ロマンチックなもの、ファンタジックなイメージしかなく、どこか白ける自分がいたけれど、クリスチャンの世界を疑似体験したことで、こんな観点があったんだと驚かされました。
6年前、年少の長男のクリスマス礼拝とページェントを初めて観たとき、プロテスタント牧師の園長先生が「世界中にはいまも戦争や貧しさで苦しんでいる人がいます。今日はその人たちのことを思ってお祈りをささげましょう」と祈られたことにハッとして、不意打ちを食らったかのように、涙がボロボロ流れたことが鮮明に思い出されます。
そして、この讃美歌を園児たちが歌って、圧倒されました。
「クリスマスだからかんがえる」
クリスマスだからかんがえる たくさんたくさんたくさん
かなしんでいるひとのこと
クリスマスだからかんがえる かなしんでいるひとのこと
それからすこしかんがえる どうしてどうしてどうして かなしいことがあるのかな
クリスマスだからかんがえる かなしんでいるひとのこと
その時は、初めての育児と仕事の両立の日々でよっぽど疲れていたのか?とも思うのですが、子どもたちの声で歌われると、純粋無垢で直球すぎて毎年涙腺が崩壊するのです・・・。
こんなふうに他者を思うやさしい気持ちをずっと持ち続けてほしい。
誰かのために祈ることができる人間であってほしい。
毎年この讃美歌を聞くと、キリスト教こども園に入園させいと思った自分の初心に帰るのです。
クリスマスにできる行為として、各家庭で子どもの手作りの献金箱に貯めた献金を、クリスマス礼拝当日に集めてイエス様に捧げます。献金は、キリスト教保育連盟、アジアキリスト教教育基金、UNICEFなどに寄付されます。
今年最後となるであろう、手作りの献金箱やリース。
うちに、クリスマスツリーはないのですが、なぜなくても済んでいるのかというと、子どもたちが園で作ってくるさまざまなクリスマスの手作り品に囲まれていたからだったなぁ、と気づきました。
結局シーズンが終わると、写真を撮って(撮らないこともあるし)処分してしまうのに、最後だとわかると何事も惜しくなるものですね。寂しさに嘆いている自分に気づいて驚き、人間とは現金なものだとしみじみと感じたのでした。