飛紅真の手紙

フェミニストで精神看護専門看護師ブロガー、自然、アート、社会問題を綴る。

トランスジェンダー映画『ミッドナイトスワン』から考える、社会的弱者の立場を「わかる」とは自分の中の当事者性に気づくこと。

「私って気持ち悪い?」「何で私が!」「何で私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないの・・・」

これは、トランスジェンダー女性(MtF(male to female=男性性から女性性へ)を描く映画『ミッドナイトスワン』でホルモン治療に苦しみながら、むせび泣く主人公のセリフです。

 

1.わが身に降りかかった不幸を呪う

先週Amazonプライムでこの映画を観てから、このセリフが頭の中でずっとリフレインしています。わが身に降りかかった不幸を呪う、というのは当事者の一番の本音なんだろうなと思ったからです。

ミッドナイトスワン

原作も内田英治監督の書下ろし ↓ ↓ ↓

ミッドナイトスワン (文春文庫)

当事者になる、当事者である、ということは、

自ら選んだことではなく、長期にわたってその状態が続き、発言権がなく差別され、多数から理解されない、という側面があります。

「ガチャ」などと称されるように(すごく嫌いな言葉ですが)、自分の努力では挽回できないという苦悩を抱えます。

変えられない事実を直視し乗り越えるのは容易ではありません。時には開き直ったり笑いに変えたり諦めたりしながら、受け入れていかざるを得ません。

私は精神科病院で精神科看護師として働いていますが、当事者からこの言葉を向けられることは何度かありました。

「この苦しみは一生わからないと思うよ」

「あなたにはわからない」

そして、大学時代からのゲイの男友達にもぶつけられた言葉です。

www.hikoushin.com

当事者と自分との間の越えられない「壁」のようなものを感じて傷つきます。

わかったつもりになっていた自分の傲慢さにも気づかされるし、わからないからとそこであきらめたくない。わからないからこそ努力しつづける責任があると思っています。

この言葉を当事者から心の底からぶつけてもらえたら、非当事者に一番響くであろう切実さのある言葉です。

私はこの言葉を聞くたびに、「でもわかりたいの!」と身震いしてしまいます。

 

2.当事者の存在を気づかせる映画

映画批評をネットで見てみるとまず出てくるのが、

「LGBTは可哀そうな弱者なのか」「悲劇のトランスジェンダーの枠を超えない」

という批判でした。

ライターやブロガーだけでなくLGBT当事者からの批判も多いようです。

しかし私は、「よくぞここまでトランスジェンダーの苦悩をえぐるように描いてくれた」と支持しています。

だって、そうでもしなければ性的マイノリティの生活には目が向けられないし、気になって調べることもないだろうし、議論も巻き起こることはないのです。

批判的に見れば誇張ともいえるけれど、問題提起の視点で見れば直視とも言えます。

内田英治監督は作品作りに際し30人ほどの当事者にインタビューしたと言います。

あらゆる意見があるのは良いことですよね。

僕はこれは娯楽映画であると言ったんですが、これはトランスジェンダーの境遇そのものを娯楽にするという意味じゃないです。

この映画を娯楽映画として、エンターティメント作品として成立させることによって多くの人が観て、多くの人が考えるきっかけになればいいという意味なんです。

先ほども言ったように、一番の問題は無知です。なので、まずは普段こういった問題に接しない人たちにも観てもらうため、メジャーな場で広く観てもらうことが重要だと思いました。

ハフポスト「映画『ミッドナイトスワン』の結末や、性別適合手術の描写をめぐる賛否両論を考える」2020年11月19日

内田英治監督の言葉からも、賛否両論は想定内で、敢えてどギツく描くことで議論のきっかけとなることを願っていたんだなぁ、と理解できました。

そういった意味で、『ミッドナイトスワン』はトランスジェンダー当事者の存在に気づかせてくれる映画として、一石を投じたと思います。描かれ方に賛否両論あったとしても、これだけの議論を巻き起こせるということは、社会に大きなインパクトを与えたことは間違いないです。

これは私も医療従事者向けの研修でよくやる手法です。

精神科病院での患者暴行事件が後を絶ちませんが、私は院内外で虐待防止研修を行う立場で、事件を起こした精神科病院の第三者委員会の報告書をひも解いて伝えるようにしています。

虐待行為、不適切医療、それに至った加害者の心情や虐待を隠ぺいした組織風土を、隠さずオブラートに包まずありのまま伝え、スタッフの心を揺さぶるのです。

スタッフからは、「刺激が強すぎる」「気持ち悪い」「ショックを受けた」などやや炎上するのですが、私は陰で「よしよし」とほくそ笑んで手ごたえを実感するのです。

だってこれは紛れもない事実なのです。これまで精神科病院が見ないようにしてきた、思考停止してきた自分たちの言動を、事件を通して直視すべきと思うから。

自分は大丈夫(過信)、うちの病院には絶対にない(否認)、ではなくあるかもしれない(前提)、自分も虐待しているかもしれない(加害性)、虐待するかもしれない(不確実性)と考えられるようになることが一番大切なのです。

精神科病院の職員として「聞いたことがない」「見たことがない」では済まされない。組織に所属する者として、精神医療を担う者として、いかに自分も虐待者になりうるかという「当事者性」をもてるかが大切です。

 

3.自分の中の当事者性に気づけるか

人の弱さに謙虚でいられるって、実はすごく難しいことです。

社会的弱者の置かれた立場や心情をわかろうとするには、「すべての人は当事者である」っていうことを、忘れないことだと思います。

人はおむつを替えてもらう赤ちゃん(弱者)として生まれ、おむつを替えてもらう老人(弱者)として死んでいく。強者でいられる瞬間なんて一瞬しかありません。

むしろ私はこの国で女性として生まれたというだけで自分を「社会的弱者」だと思っているし、女性が子どもを育てながら働くことは社会的弱者以外の何者でもないと思っています。

自分が持つ弱さを棚に上げて別の誰かを弱者差別したくなる、という性質もまた、他者との相対比較によってしか自尊感情を満たせない人間の弱さなのかもしれません。

「他者の痛みがわかる人は他者にやさしくできる」みたいな決まり文句がありますが、さまざまな境遇にある人の苦悩や傷つき痛みすべてをわかりきることなんて到底できるはずないし、むしろおこがましい。

社会的弱者をわかろうとする前に、まずできることは誰もが持っている「当事者性」「弱者性」に気づいていることなのかなと思います。

日本社会にある弱さや痛みを隠さずに、もっと肯定していく。強くなくていい。だってみんな生まれながらに弱い生き物で、誰かの助けがなきゃ誰一人生きていけないんですから。自立とは、「自分で自分のことができる」っていうだけではなく、「他者の助けを借りることができる」ということでもあるのです。

自分や他者の弱さにもっともっと寛容になりましょう、というのが私の大事にしている持論です。