飛紅真の手紙

フェミニストの精神看護専門看護師ブロガーが、自然、アート、社会問題を綴る。

実父からの性虐待サバイバーを描く映画『マイ・ブロークン・マリコ』からトラウマインフォームドケアを考える。

胸をわし掴みにされ、離してくれないような映画と出会いました。

『マイ・ブロークン・マリコ』

監督:タナダユキ

原作:平庫ワカ

 

偶然アマゾンプライムで流れたCMで、暴力を受けたらしき女性をめぐる物語と知り検索してみると、

“幼い頃から父親からの性虐待、恋人からのDVを受け続けていた親友マリコが転落死し、せめて遺骨だけは救いたいと両親から奪い、マリコが行きたがっていた岬へと旅に出る”

というあらすじが自分のど真ん中過ぎて鑑賞しました。

 

TVやニュースを観ない私は、2022年9月に映画公開されていたことも話題の漫画が原作ということも知りませんでした。

断捨離でタイムパフォーマンスも見直した結果、時間さえあれば映画を観ていた私も、絶対に見たいと心に決めた映画は県外の劇場まで行くこともありますが、自宅では「あらすじ」で観るかどうかを厳選しています(月に1本観るか観ないか)。

 

1.虐待サバイバーの生きづらさ

なぜ私のど真ん中なのかというと・・・

精神看護専門看護師として精神科病院で働いていますが、

性暴力被害者支援看護職(SANE)としてもトラウマケアや、虐待・暴力をなくすための予防教育をしていきたいから。

性暴力被害者支援看護職(Sexual Assult Nurse Examiner:SANE)

※1976年米国テネシー州で始まり米国・カナダに広まった看護職。

DV(ドメスティックバイオレンス)や性暴力被害者に全人的・包括的なケアを提供するために必要な知識と技術を有する看護師・助産師・保健師。

 

68時間のSANE養成プログラムを受講した私には、親友マリコの心情や行動パターンなど、まさに虐待サバイバーを忠実に描写されているな~

と、観ていて納得できるものばかりで本当に驚きました。

鑑賞後、原作者について「もしかしたら虐待のことをよく知っている?サバイバー?」と気になって検索してみると、原作者のインタビュー記事が見つかりました。

身近に虐待サバイバー(虐待を生き延びた人)がいたそうで、過去の話を聴くたびにどうにもできなかった歯がゆさをずっと感じていた、といいます。

やっぱりね。

 

主人公のシイノトモヨは、親友マリコが小学生の頃から実父に虐待され続けていることを本人から聞かされており、

絶えない傷やアザを毎日目にしながら、マリコに寄り添い続けました。

マリコは主人公への束縛、目の前でリストカットをする、といった一見すると不可解な行動を見せますが、

それでも主人公は泣いたり怒ったりし悔しがりながらも寄り添い続けます。

 

暴力は自分と他者の「境界線」が破られるという侵入的・破壊的体験です。

特に幼少期は、家族や身近な人間関係の中で境界線を育てる大事な時期ですが、自分を保護してくれるはずの家族による虐待によって、何が「YES/NO」なのかがわからなくなります。

「いや」という感情が沸かない、暴力はむしろ親密さだと認識してしまう、「仕方がない」と諦めてしまう、という心理状態のまま成長せざるを得ません。

 

幼少期に境界線が破られるという侵入的・破壊的体験はトラウマ(心的外傷)となって、その後何十年も症状に苦しむ人が本当に多いのです。

一見すると周囲を振り回す、過剰に反応する、不釣り合いな表情、ぼんやりしている、といった行動は、実は暴力や虐待によるトラウマの影響である、ということが多々あります。

本人の責任でも性格でも何でもなく、「生き延びるための手段」であり「生き方のクセ」であると考えられています。

 

本当に不幸だなと感じるのが、親友マリコは社会人になってからも恋人からのDV被害を受け続けるということ。

殺されかねないとわかっていてもDV彼氏の元に戻ってしまう。主人公の怒りや失望もひとしお。

これは、虐待サバイバーによく起こる、再び新たに犠牲者となってしまう「トラウマの再演」です。

次こそ同じ体験を乗り越えようとする無意識な自己治癒行動、

幼少期から支配関係が本人にとって日常であるため日常に戻ろうとする行動、

慣れ親しんだ人間関係への希求行動である、と考えれています。

 

 

2.社会に必要なトラウマインフォームドケア

同級生に、やたら束縛してきたり、ベタベタしてきたり、情緒不安定で、リストカットの跡があるような子がいたら、多くの子どもは敬遠するか逃げ出したくなるでしょう。

行動だけを見て、背景にある苦しみを知らないからです。主人公は親友マリコが虐待に苦しんでいる事実を知っているからこそ、寄り添い続けられたのかもしれません。

虐待の事実を知っていても、大人であっても、支援者ですら、寄り添い続けるのは一苦労です。

主人公のように子どもが虐待問題を一人きりで抱えるのは負担が大きすぎます。

だからこそ、虐待かもしれないと気づき、誰かが寄り添わなければならないのです。

 

トラウマの影響、生きづらさに気づいて対処することを「トラウマインフォームドケア」といいます。

「この行動はトラウマの影響なのかも」

「何かのきっかけに反応したのかも」

「過去の体験が今、影響しているのかも」

「本人も周囲も理解できずにうまく対処できていないのかも」

・・・といったトラウマのメガネを掛け替えること。

「何が起きているの?」「何が背後に隠れているの?」という視点で理解すること。

これは専門家でなくても誰でもできます。

 

周囲の人々がトラウマやその影響ついての正しい知識を持ち、トラウマの基礎知識を被害者にも伝え対処法を一緒に考える、

そして、再トラウマ(見て見ぬフリや話を聴かないなどの否認や回避、責めたり禁止するなどの過保護や過干渉など)を起こさない。

 

周囲の人々にトラウマインフォームドケアの視点があれば、虐待被害やトラウマの後遺症に苦しむ人を少しでも減らせる、癒せるかもしれません。

主人公も親友マリコもこうした知識を家庭でも学校でも教えられてこなかったはずです。

トラウマインフォームドケアはまだ日本では新しい概念で、現在も多くの人が知らないのも当然です。

それでも少しずつ、こうした視点があらゆる場に広がっていったらいいな、と思うのです。

 

 

3.周囲の人々や支援者にとっての代理受傷

主人公は第三者に通報するだとか相談するといったSOSを出す援助希求行動はなかった、という点は歯がゆいといえます。

しかし、子どもの援助希求行動は心理的ハードルがかなり高いものです。

「信じてもらえないかも」

「自分のせいで大ごとになったらどうしよう」

「復讐されたら怖い」

など大人への不信が高まります。

そういった不条理をよく描写しているなと思いました。

 

主人公は自責し、恐怖感、罪悪感、無力感に襲われ、時には親友マリコに怒りや不快にも感じ、苦しみ続けただろうと思います。

これは代理受傷(=二次的外傷性ストレス、共感性疲労)とも言えます。

トラウマは、自らが体験していなくても見たり聞いたりしただけで強いストレスを人に与えます。

それだけトラウマ体験は人間の生存を脅かす甚大な体験なのです。

 

最終的に親友マリコが亡くなってしまうという最悪の結果に、主人公の代理受傷はピークに達したと思います。

主人公にとって親友マリコの遺骨との旅は、「弔いの旅」だけでなく、「代理受傷を癒す旅」だったのではないか、と思えてなりません。

トラウマを一人きりで癒すのが困難なように、代理受傷も一人きりで癒すことは困難。

周囲の人の力が不可欠です。

映画でもそこがよく描写されていました。

主人公にもそんな存在が現れました。やはりその人も何らかのトラウマを抱えていたのです。このストーリーの中で唯一の救いだなと思いました。

身近な虐待サバイバーの話を聴いて歯がゆかった、という原作者もまた、代理受傷を抱えていたのでしょう。

 

誰もが大なり小なりトラウマを抱えて生きています。

虐待、いじめ、犯罪、災害、戦争、感染症・・・理不尽なことが起き続ける世の中ですから。

みんなある意味サバイバー。

トラウマを癒し合える社会であってほしいなと、そんな思いを禁じ得ない映画でした。

 

原作漫画はこちら ↓ ↓ ↓